"Heaven Burns Red" The creator's "b...

09
10

"Heaven Burns Red" The creator's "biggest weapon" and "life" of the creator, Jun Asae, which forms the core

『Heaven Burns Red(ヘブンバーンズレッド)』キービジュアル

『ヘブンバーンズレッド』 その核をなす、麻枝准というクリエイターの「最大の武器」と「人生」

 WFS×Keyよりリリースされたスマートフォン向けRPG『Heaven Burns Red(ヘブンバーンズレッド)』(以下『ヘブバン』)。サービス開始後3日で100万ダウンロードを突破するなど、好調な滑り出しを見せている……らしい。らしいというのは、基本無料であるスマホ向けゲームアプリ市場において、ダウンロード数というのがいかなる意味を持つのか、いちユーザーとしてはどうにも掴みかねるところがあるからだ。【画像】2月末からは「第三章」も開幕 と、こんな風に書き出すと、筆者がこのタイトルについて興味がないように思われるかもしれないが、実際は逆だ。売れるか売れないかというのは筆者にとっては二の次。このタイトルが世に放たれたということ、それ自体に大きな意義があると思っている。そう、本作は麻枝准という、アニメ・ゲームコンテンツ史にその名を刻むクリエイターによる「15年ぶりの完全新作ゲームタイトル」にして、ひとりの生死の淵から帰還した人間による「第2の人生」の集大成なのだ。・麻枝准の最大の武器「演出力」はゲームでこそ発揮される 麻枝准とは何者か。 PCゲームブランド・Keyのシナリオライターとして『AIR』『CLANNAD』『リトルバスターズ!』などのヒット作を手がけ、近年は『Angel Beats!』『Charlotte』『神様になった日』といったオリジナルアニメの脚本を手がけている……というのが、通り一遍の説明として浸透しているものかと思う。先に挙げた3作品含め、関わったゲームタイトルの多くがアニメ化されていることも手伝い、近年になって彼の存在を知った人ほどアニメとの連関で捉えている人が多いはずだ。 しかし麻枝准とは根っからの「ゲームクリエイター」である。いま一度そのことを思い出させてくれるのがこの『ヘブバン』なのだ。 まず、本稿において「ゲーム」が何を意味するかを整理しておきたい。ライター・評論家のさやわかによる秀逸な定義によれば、「ボタンを押すと反応する」のがゲームである(『僕たちのゲーム史』、星海社新書、2012年)。これによって、麻枝が主戦場としてきた恋愛アドベンチャー/ビジュアルノベルにおける「キャラクターとのコミュニケーション」の要素も、「ゲーム的(ゲームでしか味わえない)体験」のうちに数えることができる。通常、この種の作品において「ゲーム性」と捉えられるのはストーリー分岐を促すいわゆる「選択肢」の要素だが、この定義によればクリックorタップすることでキャラクターの表情が変化したり、テキストや静止画、音楽の流れるタイミングが制御されるといった要素も紛うことなき「ゲーム的」体験と言えるからだ。 そしてシナリオライター・麻枝准の作家性とは、そうしたユーザーとのインタラクションの中でこそ活きるものなのである。 昨年初の小説作品『猫狩り族の長』を発表したものの、基本的に麻枝のシナリオライティングは作詞のニュアンスに近い。そもそも、麻枝のルーツは音楽のほうにある。学生時代からPCソフトでの作曲に勤しみ、卒業後は作曲家志望としてゲーム会社の門戸を叩いたが叶わず、当時未経験でも応募することのできたPC向けゲームのシナリオライターとして業界入りしたという経緯を持っているのだ。 麻枝の「作詞的」なシナリオのセンスは、短いセンテンスで画面いっぱいに表示されるモノローグと、ギャグシーンにおける特定のフレーズの繰り返し(いわゆる「天丼」)に顕著に見られる。テキスト送りのタイミングはユーザーの「ボタンを押す」という行為によって制御され、そこに麻枝自身の手がけたBGMや挿入歌がぴたりと重なることで、この上ない情動が喚起されるのだ。よく麻枝の作風の特徴として言われる「愉快な日常と、泣きを誘う展開とのコントラスト」も、落差やギャップによってもたらされるものではなく、定型的なリフレイン(日常)を繰り返した上で一気にサビ(感動)が来るという、ダンスミュージックのコンポジションに近いテクニックが用いられていると言える。ユーザーはメロディーや音色を身体に馴染ませるがごとくキャラクターやその関係性への愛着を深め、彼女たちが人生の重大な決断を迫られるタイミングで、それまでの日常が戻ってこないという実感に胸震わされるのである。 つまり、「シナリオが書ける作曲家」という形容でも「作曲ができるシナリオライター」という形容でも、麻枝准という才能の真価を捉え損なってしまう。いわば、ユーザーと作品との出会いの場を設計する「演出力」こそが麻枝准の最大の武器なのだ。 これは、麻枝が近年注力してきたオリジナルアニメにおいては、その真価が十全には発揮されてこなかったことを意味する。アニメの制作では、通常脚本が最初に書かれ、その後絵コンテ作成、セリフの収録、アニメーターの原画作業、劇伴・音響効果を組み合わせる編集……といった工程を辿る。その全体を指揮し、総合演出を担うポジションは監督で、脚本家は基本的にその始めの部分に関わる存在でしかない。ゲーム開発の現場においては麻枝が細かくディレクションできていた、「クリック後、コンマ何秒でイベントスチルを表示するか」や「BGMをどのタイミングで流すか」などのタイミングコントロール、キャラクターの表情差分の数、ボイスキャストの発声ニュアンスなどの監修について、少なくともそれと同レベルにコミットすることは難しかったのがアニメの現場であろうことは想像に難くない。 しかし、『ヘブバン』の開発においては、そうした難点が完全に払拭されているのではないかと感じる。インストールし、ゲームを触り始めて真っ先に驚かされるのは、日常パートのテンポのよさだ。天然気味の発言を繰り返すボケに対し大きく声を張り上げるツッコミというギャグシーンの定形は、ここ10年放送されてきたアニメ作品と方向性は変わらない。しかしそれが画面タップとそれに対するレスポンスというインタラクションを噛ませることで、こんなにも心地よい体験になるのかと驚かされるのだ。 実際、この辺りは麻枝によるかなり細かいディレクションが行われたことが、公式YouTube番組「ヘブバン情報局」での本作プロデューサー・柿沼洋平(WFS所属)の発言により示唆されている。麻枝は「リテイク魔」であることを度々自称し、それゆえに他者との軋轢を生んでしまうと自嘲気味に語ることも多いのだが、それはひとえに作品のクオリティを上げたいという一心によるもの。今回はKey(ビジュアルアーツ社)での一社開発ではなくスマホゲーム開発のノウハウを持つWFSとの共同事業だが、そんな麻枝の熱量を本気で受け止め、改善提案もしっかりと出してくれるスタッフが組織の垣根を越えて集っていることが窺い知れる。なかでもユーザーの潜在需要を戦略的に定式化し、「なぜいまこのゲームを作るのか?」をきわめて理知的に記述した『ヘブバン』の開発統括・下田翔大(WFS所属)のnoteおよび、今回のために絵柄まで変えたといい、これまた理知的にその必然性を語るキャラクターデザイン担当・ゆーげんの「ヘブバン情報局」でのトークは一見の価値ありだ。 こうした「ゲーム的」演出の一貫として、これまでの麻枝作品にはなかった音楽の使われ方が見られることにも注目したい。『ヘブバン』にはリリース時点で10曲、フルアルバム一枚分並みのボーカル曲が収録されており、各楽曲はオープニング/エンディングだけでなく、戦闘パートのBGMとしても流れることになる。そもそも、本格的なRPGを手がけることは今回が初めてとあって、「ゲーム内で流れることを想定した、戦闘パートに適したボーカル曲」というもの自体、麻枝の作曲史上初めての試みだ。従来の「切なさ」に加え、緊張感を高めるメロディーの展開には明らかな新境地を感じ取ることができるし、クラシックなオペラを思わせる重厚なコーラスなど新しいサウンドも導入されている。なお麻枝はPCで作曲を行うが、現代的なDTM環境ではなく90年代から存在する数値入力での打ち込みをいまだに行っている。本作のボーカル曲に見られる曲調の多彩さには、ほぼすべての楽曲の編曲を手がけるアレンジャー・MANYOの貢献も大きいことは特筆しておくべきだろう。 またここで、今回のボーカル曲の大半を歌唱するやなぎなぎとのタッグで発表した『終わりの惑星のLove Song』(2012)の存在も振り返っておきたい。「滅びゆく惑星で紡がれる13のLove Song」をキャッチコピーとする同作は、収録曲それぞれがファンタジーやSF的な物語を描きながらも全体としてひとつの世界観を構成するコンセプトアルバム。過去の麻枝作品の中でも最もRPG的な、『ヘブバン』に近い世界観を持った作品である。リードトラック「終わりの世界から」が海外ファンに熱く支持されるなど根強いファンを持つ作品だが、一曲の中で設定をいちから説明しなければならなかったため、自ずと「なぜ武器を取り戦わなければならないのか?」といった状況説明的な歌詞が多くなる難点もあった。一方『ヘブバン』においては実際にキャラクターが戦闘を行ってみせるため、そうした説明を歌詞の中で行う必要がない。歌詞に散りばめられたメタファーも、世界観に沿ったものでありつつ私たちの現実にもつながるような絶妙なバランスとなっており、過去最高傑作と言いたくなるようなフレーズがいくつもある(歌詞カードを読みながら聴ける日が待ち遠しい)。両作品の比較からは、麻枝の作家性はシナリオだけでなく歌詞においても、ゲームというインタラクティブなメディアの中でこそ輝く側面を持っているということが言えるだろう。・麻枝作品に「バンド」が登場する必然性 次に、『ヘブバン』が麻枝准という人間の「第2の人生」の集大成であるという話をしていきたい。本作のシナリオや世界観が持つある種の迫真性の正体を探るには、彼の経歴を辿ることも有効な補助線になると思うからだ。 麻枝はアニメ『Charlotte』放送終了後の2016年、特発性拡張型心筋症という病を患い、生死の境を彷徨う大手術を行った。主治医からは実際に「手術が成功したのは奇跡。あなたは何かをなすために生き残ったとしか思えない」という旨の言葉をかけられたといい、本人曰く「医者ですらスピリチュアルなことを言うほどの」奇跡的な生還劇だった(この辺りの経緯は2017年発売のシンガーソングライター・熊木杏里との共作アルバム『Long Long Love Song』初回限定版に付属の冊子に詳しい)。麻枝自身、その主治医の言葉に感じるものがあり、以後オファーのあった仕事は何かの縁と基本的に受けるようにしてきたとのこと。『ヘブバン』の企画・開発がスタートしたのは2017年というから、まさに本作もそのような導きによってスタートした作品と言える。 ここではそうした経験が本作のシナリオや世界観に反映されている、といった素朴な話をしたいのではない。とはいえ、以前から麻枝作品に通底していたひとつの心象風景が、より研ぎ澄まされた形で表れているとは感じるのだ。 麻枝作品を貫くキーワード/モチーフには「過酷」、そしてそれを耐え抜く「強さ」というものがある。ざっと思いつくものを挙げるだけでも、『AIR』のラストに流れる印象的なフレーズ〈彼らには過酷な日々を、そして僕らには始まりを〉および主題歌「鳥の詩」の〈わたつみのような強さ〉をはじめ、〈その足は歩き出す やがて来る過酷も〉(「Little Busters!」)〈本当の強さを誰も持ってない〉(「灼け落ちない翼」)など、枚挙にいとまがない。麻枝作品は「泣けるシナリオ」が特徴とされがちだが、そのベースにあるのは「人生とは基本的に理不尽なものだ」というある種の諦観めいた認識であり、麻枝の好む言葉を借りれば「殺伐」とした荒野をひとり歩いていくようなものだ。実際、〈ひとりになっても歩くんだ〉(「Life is like a Melody」)〈ひとりでもゆくよ/例え辛くても〉(「一番の宝物」)など、「ひとり」と「行く/歩く」を組み合わせた表現も麻枝の書く歌詞には散見される。『Charlotte』を視聴された方には、最終話で主人公の乙坂有宇(おとさか・ゆう)がたったひとり、ぼろぼろに傷つきながら世界中を旅して回ったイメージを思い出してもらえるかもしれない。 恋愛アドベンチャーという「学園もの」の形式をとるジャンルを主な発表の場としてきたこともあって、従来のゲーム作品において上記のイメージは日常空間とは異なる「もうひとつの世界」として立ち現れてくることが多かった(ちなみにこの構造について麻枝は村上春樹『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』からの影響を公言している)。それが今回の『ヘブバン』では未知の地球外生命体・キャンサーと戦うバトルRPGという形をとって、物語の前面に展開している。それまでは人生に時おり訪れる理不尽さのメタファーにとどまっていた「過酷」な荒野のイメージが、それ自体生きるべき戦場として目の前に投げ出されているのである。リアルタイムストラテジーの要素を含む緊張感ある戦闘や、荒れ果てた終末世界を画面をフリックしながら移動する経験も、キャラクターたちが戦場を生きているということを容赦なく突きつけてくる。 そんな戦場を生きるキャラクターたちは、どのような関係性を築き日々を生き抜いていくのだろうか。ここで重要となってくるのがバンドの存在だ。『ヘブバン』の主人公・茅森月歌(かやもり・るか)は〈She is Legend〉というバンドのボーカリストとして一世を風靡した過去を持つ根っからの音楽好きで、キャンサーと戦う部隊に配属されてからも、部隊員5人とともに新生〈She is Legend〉を結成してしまう。麻枝作品とバンドといえば、LiSAを輩出した『Angel Beats!』の〈Girls Dead Monster〉が真っ先に思い出されるだろう。その後『Charlotte』でも〈ZHIEND〉というバンドが登場しており、『ヘブバン』はそれに続く3作目となる。 ここに筆者は、近年麻枝の抱く人間関係のリアリティが「家族」的なものから「バンド」的なものへと移行していることが見て取れると考えている。 『AIR』や『CLANNAD』をはじめ、麻枝の初期作品では「家族」というテーマが支柱となってきた。しかし『リトルバスターズ!』で「友情」がテーマに据えられて以降は、愛情や血のつながりといったものに支えられた人間関係よりも、ある共通点を持った個々人が、ばらばらなままひとつの共同体を形成するような人間関係のモデルが前面に出るようになっている。理不尽な死を遂げた人々が死後の世界で「神への反逆」を目的に活動する〈死んだ世界戦線〉(『Angel Beats!』)や、特殊能力という「病」を抱え、同じような「病」を抱えた者たちの引き起こす問題に対処する〈星ノ海学園〉生徒会の面々(『Charlotte』)がそうだ。そしてこれはバンドという共同体のあり方にも重なる。ばらばらな個性を持ったプレイヤーが、ただ音の響きを通してのみひとつとなる。メンバー同士の仲が良いバンドが良いバンドとは限らないし、普通の意味での相互理解は必要ではない。音楽という魔力に魅入られてしまった者同士であるというその事実が、どんな言葉よりも深い信頼を築くのだ。 こうした共同体のあり方は、麻枝がゲーム開発やアニメ制作の現場で感じてきたリアリティを反映しているのではないだろうか。本稿では時おり留保なく「麻枝作品」と書いてしまっているが、当然ながら実際には麻枝ひとりの手によってそれらの作品が出来上がっているわけではない。先述の通り、最もピュアに作家性が発揮されていそうな音楽でさえ、編曲の工程に関してはノータッチなのである。作品作りという、普通ならこだわらなくても良いものに取り憑かれてしまった人間であるということ。愛情などなくとも、ただその一点において「自分と似ている」と感じられるからこそ信頼できるということ。麻枝に聞いたら「ときに意見を戦わせながら仕事をする人間に対して、そんなウェットな感情などない」と返されそうだが、はたして信頼ゼロで誰かとともに仕事をすることなどできるだろうか。 初小説『猫狩り族の長』刊行時のインタビューで麻枝は、「自分には仕事をしていない空白の時間こそ恐怖で、特に他の人は休んでしまう土日は絶望的だ」という旨のことを語っている。麻枝にとって作品作りという戦場は、文字通り人生そのものなのだ。そんな麻枝にとって「バンドが音を奏でる」という瞬間は、どんな理不尽に見舞われたとしてもその理想が自分ひとりのものではないと信じられる、貴重な瞬間に重なるのではないだろうか。だからこそシナリオ上の必然性ではなく、演出的な必然性として、麻枝作品にバンドの演奏シーンは組み込まれているのである。・この「過酷」な世界に立ち向かうすべての人に 2020年に放送されたアニメ『神様になった日』は「麻枝准の原点回帰」を旗印に制作された。企画スタートの時期は『ヘブバン』と重なっており、発表時期こそ前後したものの、この2作は麻枝准というクリエイターの「第2の人生」をスタートさせるにあたっての両輪をなしていると言える。麻枝いわく、『神様になった日』の「原点」はKeyの第一作『Kanon』で麻枝が執筆を担当した「沢渡真琴ルート」に設定されていたそうだが、『ヘブバン』にはまた違った「原点」の存在を見て取ることができる。劇中に初めてバンドを登場させたオリジナルアニメ第一作『Angel Beats!』、やなぎなぎとの初タッグでRPG的な世界観に挑戦した『終わりの惑星のLove Song』、そしてKey以前、Tactics時代に初めてメインライターを務めた実質的第一作『MOON.』における「女性主人公の一人称視点で進行するシナリオ」などがそうだ。しかし、それらに単に回帰するだけでなく、スマートフォンゲームという新しいプラットフォームで自らの最も強みとする演出力を軸にアップデートを図っているのが『ヘブバン』だということは、本稿を通じてご理解いただけたのではないかと思う。 あのころはよかったと過去を振り返るのではなく、常に挑戦する姿勢こそが麻枝准には似つかわしい。世界の理不尽さにぼろぼろになりながらも前に進み続ける……そんなキャラクターたちとその背後に透ける麻枝自身の姿に、筆者も何度となく「自分も生きていこう」と奮い立たされてきた。そんな麻枝准の核が詰まった『ヘブバン』が世代や国境を超えかつてない規模で受け入れられようとしているのなら、こんなにも喜ばしいことはない。 この「過酷」な世界に立ち向かうすべての人に、麻枝准の作品は開かれている。筆者はずっとそう信じている。

北出栞